あやこ記録する。
写真好きライターあやこのブログ
ちょっとした考え

リビングは賽(さい)の河原

主婦仕事で最高にストレスを感じること

賽の河原家庭は「まるで賽の河原」だと思うことがある

それは、家がまるで「賽(さい)の河原」のような場所なこと。

どんなに頑張って片付けても、家事をしても延々とリビングをぐちゃぐちゃにされ、これが一生続くと思えてくること。

まるで賽(さい)の河原で「石積み」をしているようなもの。

子供を持つ方や、「ママー僕の家事はしてくれるんだよねー。バブー」と無意識に考えている夫のいる方はお分かりになると思う。真新しいラグをしいたり、そのために拭き掃除を頑張ったりしても、美しい空間にいることができるのは「自分ひとりの時」だけ。さっきまで美しかったリビングが踏み荒らされた後、考えるのは「自分は奴隷」なのではないかといった想像。

 

思い出すのは子供の頃、母に言われたコトバ

「あなたたち、私を馬鹿にしているの?」
母は、家事に興味も示さない子どもたちに、時々そう言っていたと思う。今ではこの気持が痛いほどわかる。基本的に家事は「生きていく」ため。昔なら家族全員が、何かしら自分の役割を認識して協力していた。大河ドラマなどを見ているとそれがよくわかる。そうしないと生きる糧を得られないのだから、それはそれは頑張っていたことだろう。

ところが、現代は「素晴らしいキッチン」「お風呂」「スーパー」のおかげで、家事は誰か一人が頑張れば済んでしまったりする。しかも、それが当たり前と思って母親が頑張ってしまうので、家族は家事は「母親がやって当たり前」という認識になり、自分はしなくても良いと思い込んでしまうのかもしれない。

 

実は価値観の問題なんだけど、思いやりが無いという問題に思えてしまう罠

母親は、リビングを綺麗にしたら、しばらくきれいな空間にいたい。一方、家族は綺麗な空間にいたいという価値観ではなく、自身のしたいことをしたい。その結果、綺麗だった場所であろうが散らかす。で、掃除はせずにほったらかし。

実は、ここには人数分だけ価値観があるだけなのだと思う。

母親は、自分の「掃除を頑張った」・「綺麗にした美しい場所でほっとしていたい」という気持ちを踏みにじられ、「自分の気持ちはどうでもいいのね!」「私の掃除をしたという努力はあなたには関係ないのね」と感じる。結果、最初は「片付けなさい」と言うものの、家族は「片付け」を最重要と思っていないので進まない。最後には母が怒り出す。家族はとつぜん怒られるので、ただびっくりする。

ここで母親の気持ちを想像できる人はほとんどいない。自分は自分のしたうことをしていただけなのに怒られた!という「嫌な気持ち」が残る。

 

人の気持を想像しよう!と教えるけれど、すぐには結果がでない

私は、例えば「衣服を表に返してかごに入れておくこと」など、「メインで家事をする人への配慮は思いやり」であり「優しい気持ちから」と考えている。そのため、子供には人の気持を想像できる(しようとする)人にまずはなってもらおうと思っている。

それで、ひごろから「今日はとても綺麗にしたのよ。素敵でしょう?散らかったらお母さんは悲しいよ。」という感じで声をかける。そこで「掃除しなきゃ」とは簡単にはならないけれど、しばらくこれを繰り返している。これで将来は気持ちを伝えるのが上手な人に育ってほしい。

ついでに私も「自分の気持を高ぶらずに伝えられる」ようになりたい。怒ってしまうたびにまる1日落ち込んでしまうもの。

 

最初から家事はみんなでするのが普通と教え、ルールにする

さて、賽の河原事件を繰り返していると、家事をしていて「ああ嫌だ!→しまいに怒り」以外の、何かいい感じ方ないかな、なんて考えるようになる。それで思いつくのは「家事のルール化」しかないんじゃないかということ。

昔から甘えの象徴が母親なら、もはや家事はみんなでするものであり、各自の分担、担当の曜日、どのレベルまでやるかを共有しないと、「お母さんがやってくれるし」となってしまうからだ。結婚したその日から、夫婦のルールを、子供が生まれたその日から「何を教えるか」を共有するのが肝心だったんだ。全部やっていなかったし、途中で気づいたけどすでに時遅しのものも多々ある。これは反省であり、大きな気付き。

 

意外と知らない。「賽の河原話」には救いがあった!

賽(さい)の河原とは、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にある三途川(さんずがわ)の河原のこと。ここは、あの有名な「徒労話」である「石を積んでも鬼に破壊されてしまい完成させることができない」の舞台。まさに現代のリビングのことだ!

ウィキペディアによると、賽(さい)の河原は、親に先立って死んだ子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされていて、彼らが河原で親のたために積み石塔をつくろうとするのだが、完成する前に鬼が来て塔を壊し、なんどやっても壊されてしまう。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される、とある。

しかし、知らなかったのは、この賽(さい)の河原で石を積む子どもたちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるってことだ。

地蔵菩薩!

ということは、今が「賽(さい)の河原」のようであったとしても、試行錯誤しているうちに救われるということ。これには希望が持てる。菩薩様に頼るというよりは、「あがきようがある」という点が良い。「諦めなくていい」点が良い。

この救いの場面を知って、自分なりの菩薩様の世界を構築しよう、そのためにも、下手くそな自分の気持ちを素直に、穏やかなまま伝えられるようになろう、そう思った。

まあ、「汚くてもいいか!」って笑えるのが一番はやい気がするけどね。

 

おわり。

Comments

comments